植原悦二郎と日本国憲法

貞享義民加助記念館講演・高坂邦彦先生のお話

 先週の23日に三郷の貞享義民加助記念館で、この講演を聞きました。日がたっても忘れがたく、書いておこうと思いました。(植原は三郷出身で、政治学者・政治家として活躍した人)

 講演の冒頭のあたりで「植原の『立憲代議政体論』(明治45年・1912年)は、彼の本格的な憲法論で、ドイツ的といわれた明治憲法をイギリス法的に解釈した稀書である」という話が出てきて、ここで私は一気に引き込まれました。
 というのも、ちょっと唐突ですが、中学の社会科の授業で「伊藤博文が渡欧し各国の憲法を調査した結果、プロイセン(ドイツ)憲法を手本にするのがよいということになり、大日本帝国憲法が制定された」と習ったことを思い出したからです。そのときの私は「どうしてプロイセン憲法を手本にするのがよいと考えたのか?」という疑問は一切持たず、教科書に書かれたことだけを覚えました。あれから35年を経て、やっとそんな疑問を持つと同時に、その疑問が解けたのです。
 プロイセンの憲法は、当時統一されたばかりで連邦国的な体制だった国をまとめることが重視され、国民の上に(君主)国家が君臨し統治する憲法であった。かたやイギリス法は、民に主権がある・国民主権が大前提となっていた、というのです。

 プロイセン憲法は、天皇の権力を最大限に生かし民を支配しようとする日本政府の方針に合致していた、というわけです。こうして明治憲法はできたのですが、植原はこの明治憲法についても、国民主権は当然のことで、明治憲法に明記されていないのは自明の理だからであるとイギリス法的に解釈したといいます。今から100年も前の時代に、「主権者たる国民」という考え方を強く打ち出していた植原を、私はスゴイと思い、今につながる強いメッセージを受け取ったような気がしました。
 と同時に、自由民権家で国会開設運動で活躍した松沢求策(穂高出身)のことも思い浮かびました。「東洋自由新聞」の創刊に加わり民主主義思想をひろめようとした松沢の思想は、植原にも引き継がれていたのではないかと思います。

 もう一つ、興味深かった話は、「アメリカのおしつけ」といわれることもある現憲法について、そうではなく米英に留学していた植原の憲法論が当時広く知られ、米英の対日政策の基になっており、それらが逆輸入されたものだという説。
 これについては、高坂先生から紹介のあった『日本国憲法制定の系譜・戦争終結まで』(原秀成著、日本評論社)という本についての立花隆氏の書評を、参考として引用しておきます。
「日本ではすっかり忘れ去られている植原悦二郎という大正デモクラシー期の政治学者を掘り出して、アメリカ側の日本国憲法初期起草者たちが彼の著書から基本的な発想を得ていたことを証明した。新憲法は、アメリカの押し付けというより、大正デモクラシーの嫡子であったことが証明されたわけだ。」(週刊文春6月2日号「私の読書室」)