卒業、入学のシーズンは気が重い

2006年3月24日 00時34分 | カテゴリー: 活動報告

「日の丸・君が代」の問題には、異議ありの意思表示

 卒業、入学のシーズンは気が重いです。「日の丸・君が代」の問題があるからです。
 町会議員になったばかりのころ、保育園、幼稚園から始まって小中学校まで、すべてから招待状が届いたのにはびっくりしました。出席は自由ですが、「これが議員の仕事」ととばかりに出かけていく人がほとんど。誰が(どの学校へ行って)挨拶をするかということにも、けっこう気を使っているようでした。(市になってからは、議員の祝辞がいっさいなくなり、ショウジキほっとしています)

 私は、「日の丸・君が代」のことがあるので、できれば欠席して無難に過ごしたいという気持ちもなかったではないのですが、学校の雰囲気はどうか?子どもたちの様子は?など、見届けるもの議員の務めと思い直し、できるだけ出席するようにしてきました。そして、君が代斉唱の時は、来賓席にあって着席したまま歌うことなく「異議あり」の意思表示をしてきました。
全員が起立して歌っているので、座ったままで歌わない姿は、私の意に反してあまり目立たないのですが、私の周囲の来賓の方々、議員の方々には「?」そして「問題提起」にはなっているようです。

 この時期になると、「小林さんは議員なのに、君が代斉唱のとき座ったままで歌わなかったんですって。どういうこと?」とか、「だから小林さんは、やっぱ共産党なんでしょ」なんて噂が飛び交っているそうです。こういう風評に対しては説明のしようがないので、あきらめていますが、その一方ではこんなこともありました。

 昨年9月、穂高町議会の最後の全員協議会の席上で「学校の卒業式入学式で、議員でありながら君が代斉唱のとき起立もせず歌いもしない者がいる。そういうことでいいのか?」と、漠然と問い質す議員がいたので、「それは私のことと思われますので、お答えします・・・」と説明させてもらったことがあります。

*議員なのだから、国の方針に従う=君が代は国歌だから率先して歌うべきだというのですが、議会や議員は行政や国と一体ではありません。議員は住民・市民の側にあるもの、市や国の方針を無批判に受け入れることはできません。

*「日の丸・君が代」の考え方はいろいろあるから、歌わないのは“あなたの勝手”だけど、立たないのは礼儀知らずだというのですが、「異議あり」の意思表示をするには、「立つけど歌わない」では意味がないのです。立てば率先して歌っているように見えてしまいます。できる限りその場の雰囲気を壊さないで、最大限「異議あり」の意思表示をするには「立たない、歌わない」ということになります。

*考え方はいろいろあるというなら、内心の自由、思想・信条の自由は認めるということです。ならば、私は「日の丸・君が代」に疑問を持つ人たちの側に立ちたいし、議員ならそれを態度で示す義務があるのではないかと考えているのです。

 そこまでこだわるのには、当然ながら理由があります。それは自分自身が受けた学校教育のなかで、「君が代」の扱いが時代背景とともに大きく変わってきたことと、教師となって教育現場に入ってからは、「君が代」があれよあれよという間に強制力をもって、「踏み絵」のように迫ってくる恐ろしさを感じたからです。

 10年ほど前のこと、大町市のある小学校で私は音楽の専科でしたが、卒業式をひかえたある日、校長に呼び出されました。
 「何とかなりませんか。教育委員会も来るんですよ。日の丸もない、(君が代の)指揮者もないじゃあカッコがつかない。とにかく棒を振ってくれればいいんだ」、「そんなにキチンと教えることはないんです。「君が代」の君は、きみ、ぼく、みんな、その「君」だ、ぐらいにいにやっておけばいいから」・・・
 社会科の教師として日本の近代史をどう教えるか心を砕いていたはずの先生が、校長という地位に着いたとたんこうも変わるものかと、がっかりしました。今はこういう人物しか校長にはなれないのだと思うと、悲しくさえありました。
 私は最後まで「君が代」の指揮を拒否しながら、子どもたちには「君が代」について教科書にはないことまでキチンと教え、歌うか歌わないかは自分で考えて決めればよいと伝えたのでした。