1960〜70年代の穂高町議会の議事録を読む

穂高町で観光開発や別荘地開発が始まった頃のこと

 昨秋の台風23号による山麓一帯の被害のことが気になっています。30〜40年に一度の災害、めったにあることではないというのですが、その間の自然環境、社会環境の変化、地球温暖化と異常気象の進行を考えれば、「めったにない」どころか「今年もまた」になるかもしれない。だから気にせずにはいられないのです。
 先日の桐沢の視察で「今回の被害を受けたところは元々土石流など起き易い場所で、周辺の山林が緩衝地帯となって土砂や水を散らしていたところ。その昔は人も住まないところだったのではないか。」という話があり、地元の年配者の方は「そうだ、そうだ。」と頷いていました。とすると、いつの頃から人が住むようになったのか、観光開発か、別荘地開発か・・・。開発業者は危険な場所と知ってか知らずか。穂高町としてはどのような関与をしていたのか。議会でも何か論議があったのではないかと思い、観光開発や別荘地開発が始まった1960〜70年代の穂高町議会の議事録を調べてみることにしました。

 暮れから始めて、もう何回か議会事務局へ通っています。というと「それは大変ですねー」と感心されてしまいそうですが、これが「大変」どころか、なかなか「面白い」のです。始めのうちは手書きの議事録に目が慣れず、読み取るのに手間取りましたが、そのうち面白くてつい読みふけってしまったり・・・。
 議会のルールも現在とはかなり違っており、例えば定例議会が2ヶ月に1回だとか、一般質問に時間制限がない、一般質問に対して他の議員が関連質問ができるなど、かなり自由な議事進行がなされているのです。小学校の統廃合の問題、給食センター建設、ゴルフ場開発、温泉問題等々、大きな課題が次々と出てきた時期のためか、議会と理事者との緊張感あるやり取りも多く見られました。議論の内容そのものについては、時の流れを経てすべてが評価できるとはいえませんが、穂高町草創期のまちづくりに向けた意気込みは充分に感じられるものでした。

 1973年(昭和48年)から遡って調べているのですが、今日は1966年(昭和41年)まで辿り着きました。別荘分譲に関する質疑がいくつか目に付きました。おやっ!と思うような発言もありました。この先を見ていけば、別荘地開発が進むことになった経緯も出てくるのではないかと思うのですが・・・。開発当時、防災という考え方が行政、開発業者に少しでもあったかどうか、そこのところがうかがえる記録が残っているかどうか。