私がこの条例化に関心を持ったのは、町内に出来ては消え、消えたかと思えば、またいつしか別の場所に現れるアダルトビデオ(今どきはDVD)等の自販機問題がキッカケでした。
近隣の住民やPTAなどから、なにか条例を作ってこのような自販機設置を取り締まれるようにしてほしい、という要望が多く聞かれました。しかし、合法的に営業をしている業者に対して、町の条例で縛りをかけても信義に頼るだけのもので、町に強制力があるわけではない。条例を作れば解決するという問題ではなさそうだ、もっと他にやるべきことがあるのではないか、大いに悩みました。
そんなとき、合併協議会では安曇野市のまちづくり計画のなかに、具体的事業の一つとして生活安全条例の制定を盛り込んだのでした。穂高町はといえば、穂高駅周辺の将来的な整備計画のなかに「防犯カメラ設置」とあるのを見つけ、なんだか暗い気分になってしまいました。
さて、本題に戻りますが、長野市が作ろうとしている「犯罪防止に関する条例」などの生活安全条例が、全国の自治体でつぎつぎと制定されています。「凶悪犯罪の増加で不安だから、自治体や住民ぐるみで防犯活動を」、「自分たちのまちは自分たちで守ろう」、私たちの社会や暮らしの「安全」を守るために必要な条例だと説明されれば、なるほどそうだねと思ってしまい、問題点が見えにくい条例です。
「生活安全条例」を作れば、それで本当に安心して暮らせるまちになるのだろうか? 条例策定委員会を傍聴しながら、ずっとそのことを考えていました。条例(案)は、その精神をうたっただけの理念条例の枠を出ていません。「防犯意識」という規範の提示であり、拘束力・強制力はないことが強調されています。それでは、拘束力・強制力がないのに、どうして条例化する必要があるのか、疑問は堂々巡りです。
市事務局は基本的に「理念条例」に近い立場を取っており、そのことに何人かの委員は異議をとなえ、具体的な成果が期待できる=より具体的に「犯罪」に対応可能な条例を作らなければとする意思が感じられました。
そのほかに、今日の論議を通じて、条例に用いられる言語の定義の曖昧さ、いかようにも解釈・悪用されうる危険性が高いことも明らかになりました。曖昧と言えば、この策定委員会の位置づけ自体も曖昧なものであったという事実、第3回目の委員会にして「本委員会は、条例案策定について市長に答申すべきかどうかも含めて検討する場」と改めて定義づけられたのには、傍聴者の方が驚きました。
また、条例策定の「根拠」とされた「近年の犯罪の増加」が、極めて一面的なデータの見方であること、近年には犯罪発生率が微減さえしている事実を長野市も認めました。そして、委員会は、寄せられた多くのパブリックコメント(市民からの意見)を前にして、「実質的な議論を本日で終了し、次回委員会で条例案確定」というスケジュールを変えざるをえないことになったのでした。
「安曇野市では生活安全条例の制定を」と掲げられてはいるものの、これは慎重に対応しなければなりません。長野市の「犯罪防止に関する条例」策定委員会を傍聴して、問題は多く大いに考えさせられました。