私はスタッフとして記録写真の担当。そろそろスタンバイしようかと思っていたら、まだ開演前なのに浅野さん「マイクのテストしますから・・・」とかなんとか言って、ステージに出てくるではありませんか。写真のようにステージにひょいっと腰掛けて、本番の講演ではなかなか話せないこともあるので、ちょっとここでやりましょうかね、といった気軽な調子で話し始めたのにはびっくり。宮城県知事になった経緯や、3期12年できっぱり知事を辞めた理由、慶応義塾大学の教授になった現在の心境など、軽妙な語り口で楽しませてくれました。
これでもうかなり盛り上がっているところに、「政治を市民の手に!」シンポジウムの開会宣言。第1部 基調講演「脱政党の時代に」 第2部:パネルディスカッション「私たちに何ができるか」と続きました。以下は、浅野さんの基調講演を聞いた感想などです。
◆国の補助金とほんものの民主主義
いかに有利な補助金事業を探してくるか、それが職員の評価につながるとはよく聞く話だ。わたしが議員になったばかりの頃、そんなこととはつゆ知らず「あの公園建設はムダが多すぎる。なぜ6億円もかけるのか」と担当職員にきいたら、「そんなことはありません。建設費の半分は国の補助ですから」と涼しい顔だった。予算審議でも「3000万円もかかる林道の舗装は不要不急、止めたらどうか」ときけば、「9割がた補助金でやっている。止めてもその分を他の予算に回せるわけではないから、やらなきゃ損だ」といわれた。
日本全国何処も同じこんな現実のなかで、浅野さんは「補助金無くせ!」と主張し、実行してきたのである。例えば、障害児も普通学級で学ぶ統合教育は、分離教育が基本の国の方針と相容れず、義務教育国庫負担の対象にならないので、県単独で費用を賄ったという。これ一つとっても、すごいことだと思う。(同じ考え方で、田中知事も県独自の30人規模学級を県の予算でやっている)
補助金をもらって国が決めたとおりのことをしているうちは、住民が当事者意識や納税者意識を持ちにくく、住民のための施策には結びつかない。補助金がなくなって本当に困る住民があるなら、それは国にすがるのではなく、自分たちの金を出してでもやらなければならないことなのだ。そうすれば、自分たちの財源(自分が納めた税金)だからムダにはさせないという緊張感が生まれ、自治意識も高まるはずだと浅野さん。
職員は国が決めたことは「そつなくこなす」が、自治体独自の施策には思考停止状態になりがち。財源も権限も国が握ってきた結果ともいえるが、議会も議員もそれをよしとしてきた背景がある。自治体として、集めた税金を住民の幸せためにどう使うか。有権者・納税者である住民を巻き込む形で、財源の使い方を自主的に決めていく仕組みを確立することが必要であり、それこそ「ほんものの民主主義」が根付くために必須の過程だと力説されたことにも、大いに共感した。