・いじめを苦にした児童・生徒の自殺が相次ぐ
・学校、解明に後ろ向き 説明二転三転 二つのいじめ自殺
・道教委が遺書放置=6月に写し入手、紛失−滝川いじめ自殺
・いじめに加担した教師
・教諭自殺 校長がパワハラか(パワーハラスメント=職権に基づく嫌がらせ)
・履修不足 学校なりふり構わず(高校で必修科目が教えられていない問題)
・未履修苦に?校長自殺
このところ続々と出てきた子どもと教育の問題、学校と教育委員会の問題。ここまでひどい事になっているのかと、暗澹たる思い、あるいは危機感をつのらせている方が多いのではないかと思います。
しかし、私はむしろ「やっと、世の中まともになってきたのではないか。学校や教育委員会の問題がこうして表沙汰になることで、はじめて本気で考えようというところまで来たのではないか」そう思うのです。起こっているのは胸ふさぐような辛いことばかりですが、それがこうして明るみに出てくること自体は、今までになかった良い兆しではないかと思います。
それはどういうことかというと、最近になって表面化した問題は、すべて10年20年以上前からあったことだからです。あったけれども、それらは表沙汰にならないよう内々に対応してきたので、何もなかったか、些細なこととして片付けられてきたのです。
体罰、暴力、子どものいじめ、教師の子どもいじめ、セクハラ、点数至上主義の指導、はては教師の授業放棄など、すべて私の身近に起こったことですが、どれも「事を荒立てない」ことが最優先され、だれもきちんと事実と向き合うことなく、やり過ごして来たのがこれまでです。
よくてせいぜいが、暴力教師を転勤させるぐらいのことでした。転勤したからといって、その教師の本質が変わるわけではないのに、行った先の学校の子どもたちはどうなるのか。本気で考えているとは思えませんでした。そのうえ、これではいけないと声をあげた親や子どもが、そして心ある教師が、異分子扱いされ不利な立場に追い込まれるようなことさえありました。
私は、県下の小学校で12年、退職したのち臨時採用で8年半、都合20年ほど教師として働いた経験があります。それにプラス、母親として学校に関わること12年。学校を内側から、そして外側から見つめてきた結果が、このようなものでした。親として地域の大人として、外側から学校と係わっているだけでは、なかなか見えてこないと思いますが、見えないからといって何もないわけではないのです。
問題があってもまともに取り合わず、子どもや保護者や教師を黙らせ、何事もなかったかのようにしてきたのが「学校」や「教育委員会」です。その影には「文科省」も。
問題を正面から解決しようとせず、体面や権威にとらわれ保身に走る体質・醜い姿は、子どもには絶対に見せたくないものですが、子どもたちはもう薄々気がついているのではないでしょうか。
教育はもちろん学校や教育委員会だけの問題でありませんが、しかし、教育は家庭と社会の問題だといって逃げられるもではありません。学校や教育委員会の責任は非常に重いものです。「これが現実だ」と認め、「これではダメだ」と反省しない限り、状況は悪くなる一方でしょう。
ところで、そういった学校や教育委員会の現状や、世間一般の教育に対する不安の増幅により、愛国心を前面に据えた教育を主張する安倍首相の思惑通りの方向へ持っていかれる危険性を感じないわけにはいきません。
つまり「こんなひどい状況になったのは、教育基本法に問題があるからだ。一刻も早く変えなければ!」という論法で、教育基本法改正(改悪)や学校と教師の管理強化が進んでいく怖さ、といったらいいでしょうか。
教師が生きいきしていられない学校で、どうして子どもたちが伸びのび・生きいきできるでしょうか。教師が学びの楽しさを実感できなくて、どうして子どもたちが学ぶことに意欲的になれるでしょう。これまで文科省がやってきたことや、安倍首相が目指す教育など、本末転倒なことばかりだと思います。
ルイ・アラゴンのことば「教えることは希望を語ることであり、学ぶことは誠実を胸に刻むことである」を忘れずにいたい。