豊科近代美術館の名称を「安曇野市美術館」に改める条例改正ってなに?

~安曇野文化財団の村田コレクションはどうなる?~

日本民芸館ホームページより

安曇野市博物館条例の一部を改正する条例というのは、安曇野市豊科近代美術館の名称変更が主な内容で、新名称を「安曇野市美術館」に改めるというもの。

安曇野市合併から20年を迎えるこの時期に、やっと名称変更に至った事情は複雑です。フツーに考えれば合併前に「安曇野市美術館」に名称変更することが決まっていてよいはずだったのですが、それができなかった「複雑な事情」があるのです。その事情を正しく知る人が、もうほとんどいなくなってしまったこの時期に、「豊科近代美術館」を「安曇野市美術館」に名前を変更するというのですから、その「複雑な事情」を知るものとして、安曇野市議会の議事録に残る形で意見を残しておかなければと考えました。
以下が、その討論です。

安曇野市博物館条例の一部を改正する条例に賛成の立場で討論します。
私が本条例改正に賛成する理由は、豊科近代美術館の運営のために設立された安曇野文化財団・旧豊科文化財団の基本財産、これは村田コレクションと呼ばれる西洋の歴史的な庶民の生活工芸品700点余り、評価額1億6千500万円というものですが、この基本財産の調査、研究、活用が財団の活動の目的であるところ、美術館の名前が安曇野市美術館となっても、村田コレクションの継承と調査・研究、活用の場はなくなることはないと説明があったからです。

とはいえ、これだけでは何のことなのか、お判りいただけないと思いますので、この際、安曇野豊科近代美術館の成り立ちと村田コレクションについて、くわしく説明し、市民のみなさんに理解を深めていただきたいと思います。

豊科近代美術館は、今から40年ほどさかのぼる1986年、旧豊科町笠原町長の博物館構想に始まります。当時、埼玉県春日部市でヨーロッパの工業化・近代化以前の庶民の生活を再現展示する「生活工芸資料館」を開設していた村田新蔵さんのコレクションに目を付けたのが、今はなき笠原町長でした。

村田さんは自身のコレクションを基本財産として「生活文化研究財団」を設立し、現代文明に内在する危機の解消と社会の近代化につれて失ってきたものを取り戻す活動を目指しました。一方、笠原町長は自身の政治的野心から、村田コレクションを豊科町のものとすることにこだわり、両者はほどなく対立することとなってしまいました。

当初、美術館の設計を担っていた村田さんの「生活文化研究財団」は、美術館の名称を「フォークアートミュージアム・トヨシナ」としていました。対立を深めていた笠原町長は「フォークアートミュージアム・トヨシナ」の基本設計図を村田さんから取り上げ、伝統工芸館という名称に変更して、その後の実施設計を「豊科町建築設計監理共同企業体」に任せたのです。ことここに至れば、伝統工芸館に村田コレクションを収蔵・展示することはできるはずもなく、1991年、仕方なく、豊科町は2億9,000万円余をかけて、彫刻家高田博厚の作品を購入。翌年の4月には伝統工芸館として完成した美術館を「豊科近代美術館」と改名して開館したのです。

村田さんが理事長となり、旧豊科町から出資を受けて設立した「生活文化研究財団」は、このころには村田さんを排除して「豊科文化財団」と名を改めましたが、安曇野市に合併して安曇野文化財団となった現在でも、村田コレクション1億6500万円相当の基本財産はそのまま所有しています。残念ながら、常設展示されないまま33年が過ぎようとしていますが、10年ほど前からは、村田コレクションの評価が高まり、信濃美術館や日本民芸館での展覧会などで、注目を集めている村田コレクションです。

そんなとき、急に持ち上がった「安曇野市美術館」への名称変更にとまどい、改めて村田コレクションについて新しい情報はないかと調べてみたところ、2022年秋に、それまで村田新蔵さん亡きあと村田洋子さんが守ってきた村田コレクション800点が日本民芸館に寄贈され、23年秋には記念展覧会が2カ月に亘って開催されたことがわかりました。安曇野市は村田コレクションの問題は解決済みとして、村田洋子さん所有のコレクションには関与しないと明言していたので、この貴重な財産が散逸してしまうのではと心配していたのですが、「村田コレクションに最もふさわしい場所、日本民芸館に収蔵され、本当によかった」と安堵したところです。

それにつけても、安曇野文化財団所有の村田コレクションについても、関心が高まることが予想されます。今回の名称変更を機に、その有効活用、調査研究の道が開かれていくこと期待して、安曇野市博物館条例の一部を改正する条例に対する賛成討論とします。