小林じゅん子はなぜ議員になろうと思ったのか

2013年10月1日 23時11分 | カテゴリー: 選挙

~私たちのまちのことは私たちの手で決めよう~

 

2003年の穂高町議選に立候補したころの小林じゅん子

 議会は男の世界。
 議会は特権の世界。
 議会は慣例と前例の世界。

 もしかしてこれを読んでいるあなた、うなずいているのではないですか。議会には男も女もないはず。議会は公平公正に働くはず。議会は法が律する世界のはず。本当はこっちにうなずいてほしいのですが、現実はそれとは程遠い状況です。議会改革が叫ばれるのも、もっともなことです。それを承知で、私が議会へ入ってみようと思ったきっかけを、今日は書いておこうと思います。

 1977年、私は教育学部を出て小学校の先生になりました。3年後には結婚し、そのまた3年後には2児の母となりましたが、育児休業を取りながら仕事を続けていました。
 当時の穂高町・有明保育園は朝8時30分~午後3時という幼稚園並みの保育時間でした。夕方までは私の母がめんどうをみてくれましたが、勤めの帰りが夜の8時9時になることも多いので一日おきに保育ママさんをお願いし、何とかしのいでいいる状況でした。
 保育にかかる費用もハンパではありませんでしたが、それは我慢するにしても、朝8時30分から午後3時迄では保育園として機能していないに等しい。「この町に住む母親は働くな」ということかと腹立たしい思いを懐きつつも、町や県の保育行政に窮状を伝えることすらできないほど、日々の忙しさに追われていました。こんな状況では仕事を続けることも難しく、11年勤めたところで退職。専業主婦になりました。

 家と学校を往復していただけの頃とちがって、毎日この町に腰を落ち着けて暮らしてみると様々な課題が見えるようになってきました。 保育の問題なら、自分の経験を踏まえて訴える事ができると思い、仲間を募り保育時間の延長や保育内容の改善を求める運動を始めました。その後、3年余りかけて、穂高町の保育園の保育時間を”保育所”並にする事ができました。

 その間、何度、町の福祉課へ足を運んだことでしょうか。運動は町レベルにとどまらず、県や国まで巻き込む結果となり、「町は県にお伺いを立てつつ」「県は国の方針に従いつつ」でしか事が進まない現実を目の当たりにしました。目の前の困っている人からの訴えよりも、国からの「延長保育をしないのは問題ですよ」の指導でしか動かない保育行政に、これでは住みやすい町になるはずがないと痛感したのでした。

 住民参加の町づくりと言いながら、実際には審議会で意見を聞くだけだったり、重要な決定には関わらないようになっていたりで、本当の意味での住民自治には程遠い実態も分かってきました。 その思いをさらに決定づけたのは、地域高規格道路・松本糸魚川連絡道路の建設計画でした。
 国は「地域からの長年の強い要望を受けて・・・」と説明するので、地域からの要望っていったい誰の要望ですか?ときくと、安曇野の各市町村長、議会議長、議員、地域の主要団体などとの返答。町長や議会がそんな地域高規格道路の要望をしているなんて、ちっとも知らなかったし、地域高規格道路は必要ですか?と聞かれたことさえないのです。
 それなのに、ちゃーんと「地域からの強い要望で」となるのはなぜなのか?私たちの声に耳を傾け町政に反映しようとする議員があまりにも少ないからだ。「私たちの町のことは私たちが決めたい」「政治を私たち住民の手に取り戻したい」そんな気持ちが、私を政治活動へと向かわせていきました。

 そして、2002年9月1日、県議会の不信任を受けて自ら失職した田中知事が、見事再選された瞬間をテレビで観ながら私は決心していました。 「そうだよ!私がやればいいんだ。今まで自分がやってきたことを、そのまま議員としてやればいいんだ!」と。
 行政主導や利益誘導型の政治ではなく、「私たちの町のことは私たちの手で決めよう」「私たちの生活の本当に必要なところに税金を使おう」という当り前のことを実現しよう。そう考えたわたしは議員になろうと立候補することを思い立ったのです。

「長野10月革命 ネット選挙は2000年にはじまった」

※2000年夏の長野県知事選と2002年の出直し知事選に、私は大きく触発されました。
 当時ネットを選挙戦で使うのは禁じられていましたが、一部の県民有志はぎりぎりのところでITを駆使した選挙戦を展開しました。先月出版されたばかりの本、木佐 芳男 (著)「長野10月革命 ネット選挙は2000年にはじまった」(世論社)には、なんと小林じゅん子も実名(小林純子)で出てきます。